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あー、1月中に更新したかったなあ。『バガボンド』の32巻の感想。2010年中の連載終了が発表された今作。つまり単行本で言えば、だいたいあと三冊以内って感じになる。全35巻ってなれば、スラムダンクを越えて井上雄彦の作品中、最高巻数作品になる訳だ。やっぱり漫画は終わらせることで完全にどういった作品であったかというのが判断されると思うし、全体の一貫性とかオチの畳み方とかが重要になってくる。漫画が連載という形で長いスパンをかけて完成されていく特殊な表現であり、とくに最近は数十巻に及ぶ作品は10年とか20年なんていう長期間に渡る作品だって存在し始めて、より一層、全体の整合性を保つのが難しく、そして重要になってきた。バガボンドはそういう点でとても話の辻褄が取れている作品だと思う。むしろしつこいくらい同じようなことをゆっくり時間をかけて描いてきたんじゃないか。とくに後半にかけては顕著。武蔵の追い求める答え(のようなもの)についての全容はほとんどの読者がとっくに理解しているだろうし、作品の文脈に込められた論旨もはっきりしている。それだけに伊藤一刀齋は面白いキャラクタだった。物語と読者に大きな裏切りを与えたし、結果的に作品の文脈の幅が広がった。上手いやり方だったと単純に思う。ただ、どっちにしろ、『バガボンド』という作品の敷いた土俵の一線は越えなかったし、時代性を捉えたキャラクタというものは一貫して描かれなかった。なんとなく、後半の隅々で封建社会という当時の背景に溶け込んだ武家の在り方を匂わせるような人物や描写はあったけど、それでも『バガボンド』の描く武家社会は極めて近代の感覚とリンクしていて、馴染みやすい時代もの漫画だった。故に武蔵という主人公に対して親和性を強く感じられるものの、どこかその時代に生きるキャラクタとしてはリアリティに欠ける部分もあり、孤立している。さらに対峙する小次郎は一層その孤立が際立ったキャラとして登場し、なんだかよくわからないが途方もなく常人の及ばぬ領域まで逝ってしまった超人二人の奇妙な友情劇といった、ある意味で『北斗の拳』みたいな話になってはいないかという、詭弁が頭をよぎる。天下の奇人としてその内情を描かれ続けてきた宮本武蔵に対峙する存在が“極めて似た存在”としてではなく、“極めて真逆な存在”として(一刀齋と石舟齋のような?)描かれてもよかったかもしれない。例えるなら、植田良平みたいなキャラが小次郎のポジションでも良かったんじゃないか、とかね。強さを象徴するキャラが凡人とは違うことが強調されすぎて、「ただし天才にかぎる」みたいな印象がちょっとせっかくの地続きな時代ものを破綻させているような気がするので、もう少し目線を低くして時代性を担わせたキャラを“強さ”の上位に持ってきて欲しかった、と終盤になって思い返すと感じる。要するにそうすれば『シグルイ』みたいな漫画と比較されたときにさらに面白かったんだろうと思ったり、実はただ単純に僕が植田さんが大好きだからだったりする。
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